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『孝行したいときに親は無し』か?

ことわざに『孝行したいときに親は無し』というものがあります。

これはそのまま真実でしょうか?

 

意味は「子が親の有難みを知り、孝行しようと思える年齢になった時には親はこの世にいない」という教えで、

後悔しないように若い頃から孝行しておくことを勧める教訓を含んでいます。

 

私は幼い頃、この言葉に「確かに死んだらまた生まれ変わって新しい人生を生きるから、次の人生を始めているのに前の人生で関係のあった人達に色々想われてもかまってる暇はないから、やっぱり生きてるうちに孝行しないとな」と勝手に解釈を付け足して捉えていました。

 

でも、心配ばかりかけて、ろくに感謝もできないまま突然母親を亡くした時、

後悔と哀しみに苛まれて過ごすうちに「本当にもう遅いのかな・・・?」と考えるようになりました。

 

先人が口を酸っぱくして大事な教えを説いてくれても、

やっぱり実際に体験しないと気づけない事はあって、親は体を張ってそれを教えてくれるのだと思います。

 

そうしてやっと気付けたのに、もう感謝しても遅いのか、本当に伝わらないのか、無駄なのか?

 

でも実際は長年思い込んできた【次の人生を生きてるから・・・】という考えは何処かに飛んでいき、

ゆっくり時間をかけて母親と向き合う期間が始まりました。

 

じっくり考えても答えは出ないけれど、何かの拍子にはっと気付く事があり、

「あれはこういう意味だったのか」

「本当は○○したかったのに、私のためを想って敢えて○○したのか」

と、時間をかけて吸い上げていきました。

 

その都度、悲しかった過去や苦しかった記憶と向き合わないといけませんから、

非常に孤独で苦しく、時間もかかります。

そしてその間も自分の人生は【続いて】いますから、

自身も親だったり、職場での立場だったり、色々な役目を担いながらの作業になります。

 

親が亡くなってから感謝しても遅いという考え方も確かにあります。

でも、気付きや感謝に『遅すぎる』ことは無いし、意味も必ずあると思っています。

 

実際に相手はもう別の人生をスタートさせているかもしれません。

相手が亡くなった方もでも、生きている方でも・・・。

 

それでも。

 

時間やパラレルワールドの概念を超えたところで、

気付きを得て、

感謝し、様々な感情を感じきり手放せたときから、

 

癒しと解放が進み、人生が変容していくと信じています。